番外編(115-3)、わずか百年(20091114)


青森県立三沢航空科学館、航空祭のついでに立ち寄ったが、ここもなかなか面白いところなのだった。
写真 展示館(2009年10月18日13時50分頃、青森県立三沢航空科学館にて)

入口のすぐ近くに鎮座ましますのが、ミス・ビードル号(復元機)。1931年(昭和6年)に世界初の太平洋無着陸横断飛行に成功した機体。
その時の離陸地がこの近くだったため、当館の看板娘といった役回りのよう。
さて機体だが、とにかく燃料をたくさん積まないといけないので、かなり立派な体格をしている。昔のミスは逞しかったのであるな。
写真 ミス・ビードル号(2009年10月18日11時30分頃、青森県立三沢航空科学館にて)

先に進むと広い空間となり、まず目に入るのが、航研機(復元機)。1938年(昭和13年)に周回航続距離10651.011kmを飛び、平均速度と併せて国際航空連盟から世界記録を認定された機体。
航研とは東京帝国大学航空研究所の略。貧乏所帯だったのに世界記録を作ってしまうあたりは、さすが東大。
機体は、大きな主翼とノッペラ坊のような顔が異質。どちらも記録達成のための工夫。
設計・製作・飛行に複数の青森県人が関わっていた。
写真 航研機(2009年10月18日11時40分頃、青森県立三沢航空科学館にて)

その隣には、YS11(実機)。1964年(昭和39年)から運用された戦後初の国産旅客機としてあまりにも有名。
この年は、東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開業した年。日本の未来が光り輝いていた頃だ。ちなみにワタシは小学3年生、ワタシの未来も光り輝いていたなぁ。今はどちらも・・むーん。
客室部の巾は3m弱、座席は1列4席なので列車に近い。そういえば、どことなく0系に似ているような感じも。って、逆か。
航研機の設計に関わった青森県人がこちらにも関わっている。
写真 YS11(2009年10月18日11時40分頃、青森県立三沢航空科学館にて)

見上げれば、奈良原式2号機(復元機)。1911年(明治44年)に飛行に成功した初の国産飛行機。奈良原は設計者の名前。2号機ということは当然1号機もあるわけだが、こちらは失敗している。ご苦労があったわけだ。
ライト兄弟がライトフライヤー号で世界で初めての飛行に成功したのが1903年(明治36年)。遅れることわずか8年。インターネットで世界中の情報がすぐ手に入る今とは時代が違うのに、チョー早い!
しかも、機体は今風の前プロペラ式。当時の主流は後プロペラ式だったと言うから、なんとも先進的。
写真 奈良原式2号機(2009年10月18日11時40分頃、青森県立三沢航空科学館にて)

続いて、白戸式旭号(復元機)。
白戸は飛行士の名前。奈良原の元で教育を受け、飛行士として活躍し、後に自らも後進を教育した。青森県人。
機体は1915年(大正4年)の地方巡回飛行に使用されたもの。奈良原式2号機と比べると、たった4年で、胴体や尾翼が見事にすっきりと変わっている。
ちなみに、奈良原や白戸が活躍した当時、その舞台は千葉県稲毛なのだった。また、航研機が世界記録を作った時の離陸地は千葉県木更津なのだった。青森県も偉いが千葉県も偉いぞ。
写真 白戸式旭号(2009年10月18日11時40分頃、青森県立三沢航空科学館にて)

他にも見所満載の航空科学館だが、これにて報告終了。
あまり深入りすると「Nゲージとその周辺にまつわる自己流かつ日曜大工的な諸活動」から著しく逸脱する恐れがあるもので。(-_-)完全に逸脱してる。


追記

ライト兄弟が初めて空を飛んでから100年と少し。
100年つながりで、山手線命名100周年、茶色のラッピング車の写真をば。ええ、逸脱の調整です・・。(-_-)なのか。
写真 山手線命名100周年のラッピング車両(2009年10月9日12時20分頃、御徒町駅にて)


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